スピリチュアリティー

 

*霊界の種々相* 



(I)霊界さまざま

明らかな霊性の違い

 後ろの、光って輝いているようなのは神様のお力で、お姿は見えないですよね。 で、黄色く書いてあるのが霊の世界にあるお宮です。 で、周りに何万人もの霊が集まっている。 黒い色で書いたり黄色く書いてあるのは、魂の段階、進化の度合いに応じて魂の姿というか光り方に歴然とした差があるのを示しています。
 この世では、皆それぞれきれいな着物を着て立派な姿をしていると、その心の中が濁っていてもきれいでも表面は変わりませんね。 みんな同じような身体でみんな似たような人間に見える。しかし死んだ世界では、はっきりと、霊的に成長している霊は光ってみえるし、そうでない霊は薄暗いし、それから自分の想いの中にすっかり落ち込んでしまって一つの地獄の中にいるような状態になっている霊は、一般のそういう霊が集まっているところにはなかなか出てこられないのです。 そういうふうな霊的な違い、霊の存在性といいますか、霊性の成長に応じて、霊の世界ではその違いが歴然としてみえるのです。

(U)合同慰霊祭における霊界の様子

子孫の祈りは霊の成長を助ける

 この頃若い人たちの中には、死んだら何も彼も自由になるのだから、もうこんなに不自由でおもしろくないこの世にはいたくないと、自殺をしたがる人が時々いるみたいですが、それはとんでもない間違いなのです。悟っていない霊にとっては、あの世はこの世よりずっと辛いのです。
 皆さんがこうやって信仰をもち、亡くなったおじいさんやおばあさんや両親、あるいは先祖のためにお祈りをしている、そのお祈りを受けている霊は割合にきれいに光っているのです。ところが、そういうお祈りをあまり受けていないような霊は、地獄に落ちているわけじゃないけれども、やはり暗い感じがする。 ですから、子孫がお祈りをするということは、霊の世界での霊的な成長を助ける一つの大きな原動力になるように思いますね。皆さん、ぜひ、亡くなったご先祖、おじいさんやおばあさん、父親、母親のためにお祈りをしてあげてほしいと思います。
 『玉の光』とか『般若心経』とかは、霊にとっては一つの大きな霊的なエネルギーの源なのです。たとえば祝詞や教典の中には、霊的成長を助ける真理が書かれてあるわけだから、祝詞や教典を唱えるということは、霊にとっては大きな霊的な力を得て、それに基づいて成長ができる、自分の現在の状態が自覚できたり、成長ができるエネルギーを貰うことになるのです。

「霊の成長」とは何か

 成長ができたということは、自由になれるということですね、自分にとらわれないで、落ち込まないでね。で、自由になった霊は、子孫はもちろん、日本の国とかさらにはこれから出来ていく地球社会のために働けるようになる。それが自由なのです。
 自由になればなるほど、ものをありのままに見て、人やものを助けることができる愛が具わってくる。そしてその愛の心で人やものを助けたいと思うと、その思うことがそのまま人を助ける力そのものになるから、その力によって実際に助けることができるようになるのです。
 ですから霊的に成長できるということは、自分にとらわれない自由になって、自由になればなるほど智慧が深まり、ありのままに事実を見て、そのことに纏わる全てを生かし助けようと思う愛の念が生じ、それと同時にその愛が力そのものになって、子孫なり、あるいはこの世なり、あるいは霊の世界で苦しんでいる霊を助けたり生かすことができるということなのですが、そういうふうになっている霊は、光ってみえるわけです。 ところが自分だけの想いで自分の中に落ちている霊は、そういうふうには光ってみえないのです。
 しかし今日のお祭りは、神様のお招きで妙光之神様や私たちも一緒にいた、その中には光っている霊も薄暗い霊もそれはありましたが、みんなが共通な大きな神様の愛の力に支えられて、和気あいあいとした、一種の園遊会のような、非常に気持ちのいい霊の集まりだったように思いました。

「物」のいらない世界

 私たちはこうやって物でできている身体をもっているから、雨が降るときには家がいるし、それから煮炊きをして食物を食べなくてはいけない。しかし霊界ではどうも、そういうものからは自由みたいですね。
 広い光り輝いた野原のような空間が見えるけれども、その中に家はありませんでした。 ですから、家のようなものは必要ないのでしょうね、多分。 雨に打たれたり、寒さに凍えたりするような、そういう寒さとか雨とかというのは霊の世界にはないように思われました。ですから、誰かの書いた本の中には、霊の世界は我々とあんまり変わらないように書いてありますが、どうも今日視た霊の世界はそうではない。
 というのは、霊は身体をもっていても、その身体(霊体)は我々のような物でできた身体ではない身体だから、神様から力をいただいたらその力をそのまま受け止められて、食べたり飲んだりする必要はそれほどないように思うのです。ただ、心がこの世の方へ向いていて、その想いの中に落ち込んでいるというか、悟ってない霊は、お供え物が必要なようですが、今日集まっている霊たちはそういうことは必要でなくて、本当に楽しい霊の世界で、自由にあっちにもこっちにも、思うとおりにいろんなところへ行けるようでした。
―中略―

信仰とか霊的な成長とかいうのは繰り返し繰り返し生まれてきて努力していくうちに成長していくのです。或る集団で説くみたいに、一生のうちにおまえは必ず悟れるとか、今生では悟れないが次の生で必ず悟れるとか、そんな簡単なものではないのですよ。生まれかわり死にかわりして、幾生も努力して、それで自覚ができて続いていくものなのです。前生でお坊さんであったり尼さんであった人は、大体この世の中に生まれてきてもまた行をしたり信仰をもつケースが多い。もうちょっと長い目で見ることが大事だな。
 今蒔いた種は、それが正しいものであれば、死んでからか次の世代で必ず芽が出てくるのだから、一生懸命に信仰するようにね。そうすれば必ずみんなが救われるようになる。 近欲でない方がいいよ。


人間の生き方はどうあるべきか
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玉光神社の機関紙「光の便り」
合同慰霊祭(2000年6月4日)
での
宮司本山博の講話より抜粋


玉光神社「光の便り」
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