道 徳
魂と良心
*良心について*
それで、良心の話に戻ると、良いこと悪いことというのは、おるべきところにいて、そしてみんなが助かるように働ける、自分のする行為は少しでもみんなの役に立つ、社会の役に立つようにと思って行為ができる、それが良心なんだと思うのです。 で、みんなの役に立つように判断するのは自分が判断するのですから、そこで、自分が判断をし、あるいは個人的な理性で考えたもの、そういうものが、他の人にも通じるような性質を持っていて、自分の考えたことが同時に全ての人に通じるような考えができる、行為ができる、愛が行うことができる、それが良心だと思います。
で、人間の中にあるその良心の元は、身体にひっついている心、身体がある限りで働く心ではない。身体にひっついて動いている心は食べること、眠ること、性欲、そういう本能的な、自分の身体が成り立つように働く心だから、あくまでも自分本位で、本能的なものなのです。
ですからそういう心にごまかされると、良心が眠ってしまうというか、良心が自分の中で牢屋に入れられているのと同じになってしまう。 今の人間は、どうも良心が自分の中で牢屋に入れられているようにみえる。 そういう場合は、自己主張というか、自分を守る働きが主になってしまう。
―中略―
以上、感情というのは個人的なものでそういう心の中には良心がないということを話してきたわけですが、人間の中には、理性とか、物事を、対象について客観的に判断をする、そういう心の働きがあります。 ヨガでいうカラーナ次元の魂の心、仏教ではアラヤ識と呼ばれている心には、そういう働きがあるのです。 で、そこが人間の魂の一番基本になるところ、一番きれいで、神様が、『お前たちに与えた魂は丸い、本当にきれいに輝いている、玉の光の玉のような心である。 皆そういう心を持っているのに、お前たちは自分たちの欲でその玉のような心を三角にしたり、ひしゃげたり、へんてこりんな形にしたり、輝いている光を薄暗くしたり、汚いにおいを出したりするように変えてしまっている。 元々お前たちの心、魂は、非常にきれいな、我なきわれに返りなば玉の光が輝くという、ああいう心がお前たちの本当の姿なのだから、それを早く自覚してもとの姿に還るように、そしたら神様のところに帰れる』というお導きを下さっているのが、この心ですね。
そういう世界へ行くと、たとえば親が、食べるものがなければ自分の食べ物を子供にやって食べさせるし、子供が立派になるようにと思って学校へもやるし、自分が一生懸命働いたもので子供が大きくなるように、本当に愛をもってできる。 そういうのが良心の始まりですな。
良心の復権 ―21世紀における良心の諸問題― 宗教心理出版 発行
「個人と社会を甦らせる良心」本山 博 より抜粋
良心の涌き出る根源
次に、私たちは、人と人との間、殊に親子の間とか兄弟、夫婦の間で共感をもつことができますね。その共感というのは、自己中心的な快・不快を基盤とする自分の感情をこえて、相手が感じているその相手の立場に立ってはじめて、相手の苦しみとか喜びとか考えていることとか、いろいろな内容を感じ、共感することができる。つまり相手の立場に立ってはじめて、本当にその人の心と共に悲しんだり喜んだりできる。ということは、「自分」というものを捨てて相手の立場に立たないと共感というものはもてないわけです。
「相手の立場に立つ」ということは、自分というものを或る程度否定して、相手の立場に立つということ、相手になるということですから、相手に対して在る自分を超えて、「相手」とか「自分」とかを包むような大きな立場に立ったときに、共感をもつことができるわけです。そういう立場に立ったときに、相手にどうしてあげたら本当に相手を助けることができるかがわかる。遠藤先生が言われたように、医療でも、医者が本当に患者の立場に立って、患者の気持ちを理解して、医学という小さな枠の中でものを考えないで、人間としての相手と自分、身体も心も魂ももっている全体としての相手と自分との間に共感ができた時に、「どう処置すべきか」という正しい判断ができると思うのです。そこから相手の状況についての正しい判断と、それに基づく、相手を真に助けるためにはどうしたらよいかという智恵と愛と行動力というものが、自然に生まれてくると思うのです。
ですから、共感というのは、自分だけの利益の主張、つまり個人とか企業とか国家という、「自分を主張するだけ」という物の原理を超えて、自分も人も自然をもくるめて自分の中に包摂できるような立場に立ったときに、はじめて共感がもてる。それが共感でなく、ただ自分の感情を基盤とした好意であるときには、自分が相手にとっていいだろうと思って行なうことであっても、それか相手にとっては有り難迷惑のときもあるし、相手を本当に助けることができないこともあります。しかし今言ったような、人をも自然をも、あるいは相手をも自分をも包めるような状態、存在論的に言えば場所的な立場に立ったときにはじめて、自分の意志決定、自分が「こうだ」と思うことが、相手にとっても善であり、相手を真に生かすことになる何かが自ずから涌いてくる。つまり本当に相手を正しく生かすことができ、人も自然も、自分も他人も社会も共存できる智恵と愛、創造力というものが、自ずから出てくると思うのです。
そういう状態になりますと、実は、感覚を使わなくても、あるいは物理的な道具を使わなくても、他の人の病気を或る程度治したり、あるいは、その人の悩んだり苦しんだりしている心の状態を癒すことが直接できるようになる。それは私の長い間の体験でそう思うのですけれども、そういう心、つまり人と共感がもてるその立場に立った心、つまり場所的な心、その中に、良心というものが涌き出てくる根源があるように思います。
この「場所的な心」というのは、たとえば今の量子力学で「場所の量子力学」というのがありますが、たとえば素粒子が波になったり、粒になったりするという考え方から場所的な理論が導き出されている。湯川先生が中間子理論というものを考えられた基にも、西田哲学で言う場所的な理論というものが一つの支えになっているかもしれないと思うのですが、そういう場所的な心というものになったときにはじめて、歴史的な、あるいは民族的な違いをこえて、全ての人びとと共感をもち、助け合い、共生していけるようになると思うのです。
場所的な心−良心−が地球社会を創る
キリスト教文化の中の道徳と、仏教文化あるいはアジア的な農耕民族がもっていた道徳との間には、非常に違いがありますね。先ほど八城先生が言われていたように、日本では性善説が根底にあり社会が動いている。皆が一人ひとり一生懸命にやって、それで失敗をしたのだから誰を特に責めることもないというふうなルーズな考え方の根底には、全てのもの、自然も人間も神様も、本来は一つのものだというふうな考え方があるように思われます。それに対してキリスト教圏の西欧では、神様があって、全知全能の力、智恵と愛によって人間をつくり出した。だから人間は神の教えに従うこと、神について行くことが善であり、それに従わない時に悪であるというふうに、キリスト教的あるいはセム族宗教の文化の中での善悪の考え方と、仏教的な善悪の考え方とでは非常に違いがある。それは砂漠の中で生きていくためには、非常に厳しい指導者がいて、神様の命に従って集団として動き、盗みをしない、人殺しをしない、嘘をつかない、姦淫をしないというふうなことを守らない限りは社会が成り立たないから、そういう自然環境のもとでは、キリスト教的な、あるいはイスラム的な考え方が、人間の生活、社会を成り立たせるために実際に必要な道徳だったわけです。
ところが、森林の、あるいは農耕地帯のわれわれの恵まれた自然の中では、自然についていき、自然の背後に隠れている大生命に従っていけば、自然も人間も全てが成り立っていくのだ、再生をし成り立っていくという考え方がある。そして自然の大生命あるいは絶対というものが顕われたものの背後にあって、それがいろいろな形で顕れたものが個々の人間あるいは自然であるから、自然と人間との間、他人と自分との問には本質的には同じつながりがあるのだと考える。それは恵まれた自然環境の下で出来た道徳ですね。
ところが、これから地球社会というものか出来ていく時に、それぞれ異なった文化、生き方、それに基づいた道徳をお互いに主張しあう限り、決して地球社会というものは実現できないと思うのです。それを実現させるためには、先ほど申し上げましたように、人間の最奥にあって人間を人間たらしめているもの、普遍的に、そして先験的に人間に備わっている善への意思、全ての人間を生かし支える智慧と愛と創造力、つまり自然も人間も、他人も自分も、国家も民族もみなその中に包摂できるような「場所的な心」に全ての人が目覚めた時に(そういうものが本来の人間の心だと思うのですが)、はじめて実現できると思うのです。「場所的な心」に目覚め、そこから出てくる声に従う。その時に、各民族、各文化の違いを互いに認めながら、それぞれの立場で生活ができ、互いを生かすことができる善あるいは良心というものが、必ず明らかに現れてくると思うのです。その時には、キリスト教文化あるいは道徳と、東洋文化あるいは道徳との違いというものを超えて、お互いを認めあいながらも、それらを超えた善といいますか、あるいは良心というものが明らかになると思うのです。そういう良心が目覚めない限りは、地球社会の実現は難しいと思います。
玉光神社の機関紙「光の便り」第127号
月次祭(1997年12月23日)での
宮司 本山 博の講話より抜粋
玉光神社「光の便り」