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人間とは何か

人間はどこから来てどこへ行くのだろうか


 

・人間は身体だけの存在だろうか

 現代のナノテクノロジーや電磁気学、放射線医学は脳の構造、機能を分子レベルで解明し、種々の意識機能の、脳における或る部分との密接な相関を見出し、人間の意識は脳の働きの延長と考える学者も増えた。しかし脳神経生理学で解ることは、脳内の各種の神経細胞の局在、化学的働き、電磁気的働きであって、意識内容そのものを対象とできない。
 DNAが解明されて、臓器、組織の働きを或る程度コントロールできるようになってきた。しかし、どうして各個人のDNAが他の人のDNAと違うように生まれてきたかは解らない。DNAの微妙な働きをコントロールするのは、自己凝縮と、働けば働くほど無秩序に移行する物の原理からは究極的には説明できない。
 第一、医学を含めて科学は物の現象の内に必然的法則を見つけ出すのが仕事で、それを観察し、思考し、法則を見つけ出す科学者の心は除けものにされた状態で成り立っているものである。


・心について

 物は凝縮と無秩序という二つの原理で動く。心は、愛、智慧、創造力をもって物や人の心に働きかけ、物を創り出す。たとえば芸術活動、家をデザインして作り、着物をデザインして作る。人の悲しみを共有し泣いてあげられる。そこには人間の愛情がある。子どもが入学試験に受かると、親は心から喜ぶ。家や着物を作るには物の性質について知る智恵が必要であり、物を作り上げるには物への愛がないとできない。子どもの入学を我が事のように喜ぶ親の心は、物のように別々のもので一つに融けあえないものと違って、一つの心になれた状態である。
 心はさらにその重要な性質として、自由性をもつ。たとえば何かをしようとする時、直感的に「しない方がいい」と思って止める。あるいは、よく考えてそれを止める。いずれにしても、「する」か「しない」かを決める自由性をもっている。
 しかし他の面もある。必然的に引っ張られて止められない不自由性もある。タバコ飲みにはタバコを止めることは難しい。止めようと思っても、仕事で難しいことにさしかかったり、一区切り終わると、つい、悪いと思ってもタバコを吸う。欲求に必然的に引っ張られて、止めようと思っても止められない。人間の欲望は、一定の条件が整うと必然的にそれを満足さすことを要求して、人間の心、理性はそれに従うことになる。嫌いな人の所へは行きたがらない。人間の心の内の欲望や感情は或る条件の下で必然的に働く。これを止めることは難しいが、人間の理性、反省できる心は、これを事情に応じて止めることもできる。
 愛情は一つの感情であり、必然的に動きやすい。子どもに、一日に一個チョコレートをあげることは子どもにいい、二個、三個あげるのは子どもによくないと思っても、子どもがあまりせがむとついあげてしまう。親は子どもへの愛情に弱い。しかしこれが将来、子どもの体質をたとえば酸性タイプにする、アレルギー体質にすることもありうる。性格を人に甘えて自立できない人間にすることにもなる。きっぱり、一日に一個以上チョコレートをあげない、子どももそれを受け入れる時、子どもが大人になったとき体質もいい方向になり、性質も自分で欲望をコントロールできる自立的人間になる,愛情でなく、相手を心身共に成り立たせ成長させるには、真の愛が必要である。真の愛で働く人は、自らをコントロールし、反省でき、他を他の立場に立って助けることができる。

・魂について



兵助の霊


 たとえば小豆島に御本宮を造営中、忙しくて、ドイツの大学へ出す論文(「超常現象の電気生理学的研究」)がなかなか出来上がらないので、集中して論文を書ける静かな場所を探していると、お宮の造成工事を請け負った建設会社の社長が、「山奥のダムの建設現場の事務所が空家になって三年余りになるが、まだ使える」と言うので、車で山道を四十分ほど走った、人家の一軒もない山奥のダムの建設事傍所へ案内してくれた。夕方だったので、私のふとんや食料を下ろすと、運転手も社長も何かしらそわそわして大急ぎで帰ってしまった,ああ、これは幽霊が出るなと予感がした。
 十二時頃まで一生懸命に論文を書いて、疲れてうとうとと眠った。すると、まだ完成してないダムエ事の現場が見え、大きな二つの岩の間に、昔の陸軍の兵士が着ていた作業服を着た五十前後の男の作業員が逃げ遅れて、ダイナマイトで崩れ落ちた岩に挟まれて死んでいるのが見える。苦しそうである。神様にお願いして霊的力を送ると、岩の間から抜け出してきて、「私は下の部落の兵助という者です。逃げ遅れて、ダイナマイトで崩れた岩に挟まれて苦しみましたが、救って戴いて誠に有難うございます」と深く頭を下げて礼を言うと、フッと消えた,私は苦しんでいる霊を救えてよかったと思い、夜中まで論文を書いた疲れで朝までそのまま寝てしまった。
 翌日、早速に一キロメートルほど離れた山の中の一軒家を訪ねて、「昨夜こんな幽霊に会ったが、ご存知ですか」と聞くと、「ああ、兵肋のことは可哀相なことでした。あれは下の山中部落の出で、若い頃神戸に出て沖仲仕の仕事をしていたが、あまり収入がないので、自分の生まれた大鐸村でダムエ事があり、いい収入が得られるというので帰ってきて、工夫として働いていて、ダイナマイトで崩れた岩に挟まって死んだんです。おっしゃる通りです」と説明してくれた。
 岩に挟まれて痛い、痛いという想念に執われていると、肉体はもうなくなっているのに、いつまでも岩に扶まれた状態から逃れられない。死後数年経って、今はすっかり整地されて岩も死体もないのに、魂の想念、「痛い」という苦しみと「岩に挟まれている」という想念に陥ると、死んでいることも解らず、霊体になっても、その想念通りの状態をつくり出して痛がり、苦しんでいる。


霊界からこの世へ来て霊的成長し、この世から霊界に帰る

 上の再生の例からも分かるように、人間は両親から肉体をもらって出てきて、肉体の死で一切が終わるのでなく、霊界からこの世に来てその前生からのカルマの果を解き、霊的成長をして霊界に帰る。
 人間は、各人によって違うが、四百人一百年の周期でこの世とあの世の間を行き来しているのが普通である。
 人間はどこから来てどこへ行くのか、の問題は、差し当たりの何千年の間は霊界と現界の往復ということに落ち着きそうである。
 何のためにあの世とこの世を往復するかというと、霊界で想念や感情に執われた状態にいると、なかなか、その落ち込んだ自己の枠から抜け出られない。この世は、その落ち込みから、物や人の心の刺戟によって執われから離れやすい。そして自分の今の状態をこえて反省できる,
 たとえばコンピュータを組み立てることに夢中になって時を忘れる、あるいは、或る感情、或る想念に落ちて心の内でぐるぐる回りをしていても、誰かに用事を言いつけられる、あるいは腹が減ると、その夢中の状態あるいは執われの状態から離れて、今までの自分の状態を反省できる。
 この世は、物や身体、他人の心のお陰で、或る状態に落ちていることから離れやすい。そして精神的成長や霊的成長がしやすい,神はその被造物である人間に、霊界からこの世に帰って精神的、霊的成長の機会を与えて下さっているのだと思う。
もし霊界で愛、智慧、自由、創造性に目覚めた魂は、この世におけるよりはるかに早く霊的成長ができ、神との一致、悟りの世界に達することができるが、それができる魂は稀少であって、一般の人間や魂は、何千年、何万年の間はあの世とこの世の往復を操り返すのである。
 霊的成長が人間の目的であるように思えるが、さらに霊的成長ができたらどこへ行くのかという問題はこの章の目的ではないので、後に譲りたい。
 次に、人間の幸せとは何かについて考えてみたい。

 ・人間は身体だけの存在だろうか
 ・心について
 ・魂について

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本山博著『人間はどこから来てどこへ行くのだろうか』参照
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